たまおのブログ

たまおです。

なりたいものが見つからない話

 先日、私の経歴と「なりたいものになること」について書いたブログを読んでくださった方から、こんな感じのマシュマロが届きました。

 

私は「やりたいこと」を明確にして就職したわけではなく、最近、今の仕事を嫌だと思う気持ちが強くなり、人生迷走しています。

 

やりたいことに向かったり実現したりしている人を見ると、大変なこともあるだろうけど充実してキラキラしていて、自分もそんなふうになりたいと憧れます。けれど、自分の「成し遂げたいこと」を考えても何も思い浮かびません。

 

「やりたいこと」が見つからない人間へのアドバイス、意見を聞いてみたいです。

 

 本当はもっと長い文章だったんですが、概要はこのような感じです。これ読んで思いました。この方、めちゃくちゃ素直で素敵な人だなと……。

 

 いやまず、自分が持っていないものを他人が持っているとか自分ができていないことを人が実現していることに対して「自分もそんなふうになりたい、憧れる」という言葉がスッと出てくるのってすごいですよ。私が同じ立場だったとしても「そうなりたい」とは思いますけど、「キーッくやちい!」ってヤキモチみたいな気持ちのほうが先に出てきますもん(心が狭いな……)。だからまずは自己分析がちゃんとできていることと、「変わりたい」という気持ちを持てたことに対して自分を褒めてあげてほしいです。

  

 たいていの社会人は一日の三分の一ほどを仕事に費やしているわけなので、仕事をしている時間が占める割合は大きいです。ここのモチベーションが落ちてしまうと本当につらい。わかります。

 私は自分が興味を失ったものに対して忍耐力がとても低いので、なんとしてもやる気を出し続けられる仕事を探さねばとずっと模索していました。たぶんもともと働くことがものすごく好きで、興味のあるもの、好きなものに対してはいくらでも時間や労力を費やせるタイプなんだと思います(自分が所属する会社を愛せないと働けないので、半ば喜んで社畜気味に働くことも多かったです)。だからこそ自分には、この先の一生を賭けてもいいと思える仕事を見つけることが必要でした。たどり着くまでに時間はかかりましたが。

 

 だけど「成し遂げたいこと」って、何も仕事だけではないと思うんですよね。例えば仕事で文章を書いて読んだ人に喜んでもらうことと、どこかのお母さん(お父さんや子供でもいいですが)が料理を作って家族を満腹にさせてあげることと、誰かが庭の緑を手入れして美しい花を咲かせるのと、自分以外のなにかを幸せにするという意味では“価値”に差はないんじゃないかなと。

 もっと言えば、自分自身のため、たとえば「○kg痩せて目標体重になる!」でも、「本を年間○冊読む!」でも同じです。何かを達成すること、自分も含めた誰かを幸せにする喜びは、どこにでもあるのだと思います。

 

 やりたいこと、成し遂げたいことが見つからないと焦る気持ちが出てくるのはすごく理解できます。であればまず、「自分が幸せになるにはどんな方法があるだろう?」と考え方を変えてみてはいかがでしょうか。

 それが仕事に関わるかどうかはいったんおいておいて、たとえば「いつか憧れの国に旅行する」でも「理想のイケメンと結婚する」でも「部屋を素敵な感じに模様替えをする」でも「今度のイベントで1000位以内に入って推しの高レアをゲットする」でもなんでもいいです。カテゴリや大小問わず、思いつくままに「これがしたい」を書き出すのは楽しくておすすめです。

 そうやってたくさんの願いや“夢”が見えてきたら、できるものから掴んでいく。小さくてもそういう達成感や成功体験は、毎日を楽しくしてくれるしモチベーションにもなると思います。そうしていくなかで、もし「こういう仕事って面白そうだな」とか「○○(職名)になりたい」とか「○○(会社)で働いてみたい」という目標が見つかれば、ほかの夢と同じように、それに向かって歩いていけばいいんじゃないかと思います。

 

 前回の記事で「夢を叶えるにはベストなタイミングがある」と書きましたが、もしかしたら「夢を見つけるにもベストなタイミングがある」のかもしれません。気づいたときがそのときであって、いま思いつくものがなかったとしても、悩む必要はないです。「これが自分の人生にとって重要なテーマなんだな」という夢や願いは必ず見つかります。焦らずいきましょう。

 

 ちなみに「とは言っても仕事をしている時間が苦痛だよ……どうすりゃいいんだよ……」という場合もあると思います。これはもういっそ、「自分のその時間を会社に“売る”」という気持ちでいてもいいんじゃないかなと思います。というか究極的に仕事が嫌になったとき私はそうしてました。もちろんやることはきちんとやるべきだしやったほうが充実感は得られるので、“ゲームで与えられたちょっと面倒くさい(でもやっておいたほうがいい)クエスト”ぐらいの意気込みで日々の仕事を片付けるわけです。好みでないクエストでも見つけようと思えば楽しみは見つけられるし、そうやって貴重な時間と引き換えに得たお金で、自分を幸せにする方法を考えるのもアリではないでしょうか。

 

 

 こういうの、いまのご時世だと余計に難しいですけど、飲みながらお話を聞いて答えられるのがいちばんいいですよね。こちらからの一方通行な言葉になってしまいましたが、的はずれな答えでしたらすみません。ということで、飲み屋で飲んでたらたまたま近くで飲んでたおば……お姉さんが何か喋ってたな、ぐらいの感じで受け止めてもらえれば幸いです。  

なりたいものになる話

どうして(どうやって)ライターになったんですか?

 

 ネットでもプライベートでも↑のように聞かれることがあるのですが、一言で伝えるのが難しいのでここに書いておこうと思います。といっても「こうやったらライターになれるよ!」みたいなHOW TO要素はありませんのでご了承ください……。

 

 前にも書いたんですが、私は社会人生活はそこそこ長いものの、ライターという職業に就いたのはほんの5年ほど前でした。今年の春でライター5周年の6年目に入ったところで、フリーになって3年目になります。

  会社員だった頃は、それはもういろんなことをやりました。主にゲーム業界を中心に一部音楽系など、ほぼずっとエンタメ界隈に身をおいていた感じになります。やっていたことも広報・宣伝や企画やディレクションぽいことやエンジニアのようなものまで様々でした。

 

 で、なんでライターになったかというと、しばらくそんな好奇心に流されるままに生活をしていたあるとき「会社員(会社じゃなくて会社員)を辞めたい」と思ったのが始まりです。周りの人と上手くやっていけないことはあまりなかったんですが、自分は本当は何になりたいんだろう、独立できる仕事ってなんだろうと考えるようになったんです。

 

 そしてちょうどその頃、私のブログや書いたものを読んだ友人から言われた「ライターにならないの?」みたいな言葉がずっと頭に残っていて、これが最後のつもりでその道を目指すことにしました。具体的には、未経験でも書いたものが公に出せる場所を探してコラムなどを書き、その後、経験が浅くてもライターとして受け付けてもらえる会社に入りました。そこではメーカーから送られるリリースをまとめてニュースにするなどの作業をしつつ、簡単な記事から次第に手の込んだものを書かせてもらうようになったという感じです。それが前の職場で、やることはライティングだけではなかったのでかなり大変でしたが、いろいろ経験する機会をくれたという意味では今でも本当に感謝しています。

 

 そうしていくうちに、当初の目標だった“独立”を現実的に考えるようになりました。その頃は「フリーは食えないからやめとけ」的な周囲のアドバイスもあったものの、今しかないという直感を信じて会社を辞めて独立し、現在に至ります(※円満退社です)。なお、身近なライターの中にはちゃんと学校を出ている方もいらっしゃいますし、こんなふうに異業種から入る場合もあるしで、かなり様々なようです。

  

 ここからは(いつもの)余談です。

 

 夢に年齢は関係ないとかあきらめなければ夢は叶うよとかいろいろありますが、私は「願いを叶えるにはベストなタイミングがある」のだと思ってます。

 

 今の自分は決してピチピチに若いわけではないので(たまに私の素性を知らない人からすごく若くてキャッキャした女子だと思われることがあるんですが、なぜに!? と思う)体力的にはしんどいですが、昔だったらもっと何かと時間がかかっていたと思います。

 親切に指導してくれる師匠なんていない中でどう動けばいいのか、何かにぶつかったときにどう解決するか。私は物書きとして大した才能を持っていたわけではないので、“経験値”を武器にしようと思いました。毎日のように降りかかる課題や起こる問題に対する解をこれまでの経験から導き出して、自分の可能性の中の最短距離で先に進んでいくわけです。ライターという職業に限って言えば、文章力なんてものはあとからいくらでも伸ばせるし伸びるので、自分にはこのやり方が合っていて、タイミングも「あのとき」がベストだったのだと思います。もちろん、もっと若い人なら上手にたくさんの時間をかけることもできるだろうし、すごく才能がある人だったら、いつ挑戦しても上手くいく可能性は高いはずですが。

 

 人間は変化を嫌う生き物なので、環境を変えることはとても大変です。自分もそうでしたが、会社辞めたいな~とかと思っていてもなかなか辞めなかったり、もっといい生活したいな~と思ってもそのままでいるのは、動かないほうが楽だからです。でも本当に動くべきときには絶対に動けるし、「今だ!」と気付けるはず。(余談の余談ですがこのへんの話は恋愛なんかでも一緒だなあと思います。その話はまた別の機会に……)

 

 なりたいものがある人、今やりたいことがある人は、ぜひそれにチャレンジするべきです。何かを始めるには早いほう、若いほうが有利なことはたくさんあるのも事実だから。でも、たとえそのときに上手くいかなかったとしても、それはタイミングが違っただけかもしれないし、もっと素晴らしい場所が別のところにあるのかもしれません。職業も“出会い”のひとつだから目標はひとつじゃなくてもいいけど、誰かを頼りすぎると結果に満足できないような気はします。

 それと、なりたいものになることや、目標を達成するにあたって一番大切なことは、「その場所に行く覚悟、“自分が望む自分になる”覚悟を決めること」だと私は思っています。ほかにも大切なことはあるし理由を説明できなくて申し訳ないんですが、本当の意味で腹をくくっていて、目的地がその人にとってベストな場所でベストなタイミングが訪れれば、そこへのルートは自然に開けていくはずだし、きっと上手くいくので大丈夫です。

 

 私がこの仕事を始めたとき、もともと好きだった文章を書く仕事に就けて「やっとたどり着いた」と思いました。でも、本当にそこはただの“山のふもと”だったんだなあと日々感じます。正直仕事をすればするほど「えっこの山ってまだまだあんなに高いじゃん!!」と愕然しております……。

 

 どの職業でもそうですが、“なる”ことはゴールではなく、肝心なのは“なった”あと、そこからどう進んでいくか? だなあと痛感しています。というわけで、これからも地道に(ときには階段2段飛ばしで)がんばります。

“キャラクター”との付き合い方について考えた

「すごく好きな作品なのに、キャラや展開で受け入れがたい部分が出てきた場合はどう気持ちの整理をつけたら良いでしょうか?」

  という質問をマシュマロにいただきました。似た感じの質問というかお悩みがいくつか来ていたので、まとめてで恐縮ですが私の考えていることを書いておきたいと思います。

※特定の問題に対する見解ではなく、上記質問についての回答です※

 

 結論から言いますが、好き!でもどうしても受け入れられない!という場合は基本的に「見なかったことにする」でいいんじゃないかなと思います。

 

 物語の中のキャラクターは現実に存在しないので、リアルな人付き合いと違ってコミュニケーションで問題解決をすることはできません。よってこういう場合は「自分が納得できる落としどころを見つける」か、「見なかったことにする」か、「ちょっと離れてみる」のいずれかを取るしかないんじゃないかなと思うわけです。これは現実世界で言う“自分との接点はないけど存在はする人”、たとえば好きな芸能人なんかが近いと思うんですが、その人がスキャンダルを起こしたりこっちの理想とは違う行動を取ったときにどうするか、と考えるとわかりやすい気がします。

 

 で、ここからは余談です。創作物に対する私個人の考え方は、ざっくりまとめると以下の通りです。

 

 1.原作(公式)が作品世界の絶対的な事実(正)であり、正であるべき

 2.ただし作品やキャラクター像をどう捉えるかは個人の自由

 3.とはいえ各個人の捉え方を他人に強要すべきではないし、される必要もない

 

 これについてもう少し詳しく書きます。くどいようですが私個人の考え方です。

  

 1.原作(公式)が作品世界の絶対的な事実(正)であり、正であるべき

 ここで「あるべき」と書いたのは、私はキャラクターにはキャラクターたちの世界の中だけで動いてほしくて、現実世界の存在が介入することに違和感を覚えるからです。漫画でも小説でもそうですが、作り手には「一度世の中に出したものは撤回すべきではないし、撤回しない覚悟でキャラを動かしてほしい」し、そうだと信じて創作物に向き合います。違うかもしれないけど。違ったらちょっとがっかりするけど……。

 明らかな誤りややむを得ない事情があれば話が別ですが、一度出したものが変えられた瞬間、そこに“その世界にないはずの現実の都合”が見えてしまうからです(成長によってキャラ自身が前言を撤回するとかはこれまた別の話)。

 

 2.作品やキャラ像をどう捉えるかは個人の自由

 私は創作物に対して、正直「所詮は作り物の世界だし、自分が作者でない限り望み通りにならなくても仕方がない」と割り切っています。でも、作品の受け止め方は「所詮は作り物の世界」とはまた違う面もあることに、今回の記事を書いていて気づきました。

  どういうことかというと、創作世界の後ろにある“現実の存在(作り手)”にフォーカスするのではなく、物語の中の人物の行動や発言は、生身の人間と向き合うようにまずはいったん受け止めて、なぜこの人はこう動いたのか?こういう展開になったのか?を徹底的に考えるということです。理解できない描写があれば真っ向から否定するのではなく、何か見落としがなかったか、自分はちゃんとこの人を理解できていたのか、使われた言葉の意味は、全体をとおして見たらどうなるか、と考えて落としどころを見つけるわけです。

 ちなみに「この描写は作り手がこういう考えだからに違いない」というのも捉え方のひとつだし、私も作り手のことを考える場合もありますが、本当の理由は作り手側にしかないものだという事実は、心に留めておきたいことだと思います。

 

 3.各個人の捉え方を他人に強要すべきではないし、される必要もない

 先ほど書いた「私の受け止め方」によって生まれたものは、いわゆる“解釈”と呼ばれるものでもあると思います。ただし、そういう解釈や捉え方は「私はこう感じました」と人に伝えたり表現することはあっても、それを強要するのも、自分の価値観に他人のそれを当てはめようとするのもナンセンスだと思います。この記事もそうですが、私が「~と思う」「~と感じる」「~かもしれない」と書くことが多いのはそれも理由のひとつです。

 

 

 今回この記事を書いてみて、自分の考え方を整理するいいきっかけになりました。それで思ったことはもうひとつ。現実世界でも創作でも“認識のズレ”は生まれるものですが、それを埋めていくのがリアルな人付き合いにおけるコミュニケーションであって、上で書いたように、創作上のキャラと自分との間にコミュニケーションは発生しません。「こんな行動や展開があるのはおかしい」「この人はこんなこと言わないのに」という不満が生まれるのは、作り手の存在を意識しすぎてしまっているからでもあるのかなと思ったりもしました。それがいいか悪いかは別として。

  作品をどう解釈するかは個人の自由であり、人の解釈や意見に賛同するのも反対するのも自由ですが、大切なのは誰かの意見ではなく、あくまでも「自分はどう感じるか」「何を選択するか」を考えてみることではないかと思います。

 

 最後に、今回マシュマロをくださった方やこういうお悩みを抱える方に僭越ながらひとつだけアドバイスを。作品やキャラクターに対して感じることはその人だけのものであって(考える上の要素として他人の意見を見てみるのはありだと思いますが)、わざわざ自分と反対の意見やネガティブな感想を気にする必要はないです。自分が好きなものをみんなに好きと言ってもらえるのは嬉しいけど、仮に自分が好きなものを他人が嫌いだからといって、それは他人の評価であって自分の気持ちではありません。自信持って推していきましょう。そして、無理!と思った場合も無理せずに。

  

  おまけ: 

 映画評論家の淀川長治先生は、それまではそこそこ評価していたヴィム・ヴェンダース監督のある映画を観た時、「あまりにも期待外れで数日寝込んだ」んだそうです。どんだけショックだったんですか先生……と思いますが、その後に完成した次の作品を見たところ溜飲が下がったのか、その新作については「これは世界に対する懺悔、謝罪の映画だ!」と評論してらっしゃいました。ヴェンダースが本当は何を考えていたかはともかく、これもまた、ひとつの“落としどころ”なのかなと思いました。 

【更新中】仕事まとめ

本記事では2019年4月以降の私の仕事をまとめています(随時更新)。

 

~玉尾たまお プロフィール~

ゲームメーカー宣伝・広報など様々な職種を経て、2015年からライター活動を開始。2018年に独立しフリーランスへ。
2021年10月にライター名を「たまお」から「玉尾たまお」に変更。

近年はアプリや朗読劇、ボイスドラマ等のシナリオ制作系業務が増加中のほか、メーカーオフィシャルレポートなども担当。
メディアライターとしては2019年から4Gamer.netに拠点を置き、ゲーム紹介記事やインタビュー、イベント/ライブレポート等を執筆する。

 

制作系に関しては非公開の仕事も多いのですが、ひとまず現在までの実績を掲載しています。詳細はこちらの目次からどうぞ(目次下に「続きを読む」が表示されている場合はクリックすると各項目にリンクされます)。

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大人になるということ

大人になるということ、について考えました。

 

考え方はいろいろあると思いますが、私の中で思うひとつとして「自分の心の中のデータベースに蓄積されているデータ量が増える」というのがあります。

 

日々たくさんのことが起きますが、それは「こういうことがあった」「その時こう思った」と、経験や感情が“記憶”として脳や心の中の引き出しに仕舞われていくイメージが自分の中にあります。長く生きていれば当然そのデータ量は増えていくので、次になにか前と似たようなことが起きた時、どうすればベストな行動を取れるかが無意識のうちにわかる(あるいは解決のヒントに気づきやすくなる)ような気がします。

 

残念ながら、大人になっても痛みに慣れるわけではないし、何度体験してもキツいことはあります。それは出来事しかり、人付き合いしかり。でも、いくつも問題を解き続けていれば答えにたどり着くまでのスピードは多少は早くなるし、応用問題だって時間をかければ解ける可能性はあるし、とにかくその“問題”を経験したことは、必ず自分の糧になるはずだと思うんです。

 

以前の記事(「過去へのメッセージ - たまおのブログ」)で、こんなことを書きました。

 

落ち込んでると「誰も味方なんていないのかも」って思ったりすることもあるけれど、なにがあっても少なくとも自分だけは自分の味方で、そのときの自分がなんとか踏ん張ってくれたから未来の自分がいる。仮にさほどがんばらなくたって、変な話そのときただ生きていてくれたおかげでいまがある。そう思うと少しだけ楽になるような気がしています。

 

いまよりもっと若い頃は、落ち込むと視界が狭まるというか、つらいことにフォーカスしてしまってました。けれど、何度も失敗したり乗り越えたり諦めて回り道をしたりしていくうち、結局どの道を選んでもどうにかなるし、あとでいくらでも辻褄を合わせることはできるんだよなと気づきました。というか選んだ道が正解だったかどうか、いま自分が幸せかどうかというのは、他でもない自分自身が決めることでもあるから。

 

人生や目標においては「こうなる」というゴールさえ決めてしまえば、あとはだいたいなんとかなります。そして、その途中の道行きについてはあまり細かいことを予想しないほうが上手くいく気がします。すべては必ずベストな方向に向かっているので、何が起きたとしても、「ああ、今の自分はこの問題に向き合う時期なのだな」と思って、どーんと構えていれば大丈夫……というのも、私がこれまでに得たデータの中から出したひとつの「答え」です。なかなか、すぐには思い出せなくなることもありますが。

 

私は社会的にはもう逃げも隠れもできない「大人」ではありますが、それでもまだ、想像つかないことが起こると動揺したりすることは多いです。時々ポンコツすぎてほんとびっくりする。けれど、よく言われるように「これからの人生でいちばん若いのは今日」。未来の自分に比べれば私はまだまだ子どもなので、それもまあ仕方ないと開き直っちゃえばいいやと思ったりしています。都合のいい時だけ子どもだもーん、というのがいかにも大人っぽいですね……。

知らない間に傷ついている

とても痛ましい事件や事故を知ったりニュースを聞いたりしたとき、自分が関わっていない話でも悲しい気持ちになることがあります。それは当事者や当事者の周りの人に感情移入している場合もあるだろうし、何かこう、多くの人が感じる“喪失感”に、知らないうちに無意識にシンクロしてしまっているということもあるのだろうと思います。

 

いまはテレビやラジオだけでなく、ネットニュースやSNSであらゆる“声”が聞こえてきてしまう時代です。情報として目にしているだけだったとしても、誰かの悲しみを知り、怒りを知り、そういう声を浴びているうちに、気づかないところで自分まで傷ついてしまっている人も多いんじゃないかなという気がします。

 

身体と心はつながっているので、疲れた身体をほうっておくと気持ちもどんどんふさがってくるし、精神的にしんどくなってくると身体の調子もおかしくなってくる。だから少しでも沈みそうな気持ちに気づいたら、自分の好きなものに触れたり、それもできない場合にはいっそそのまま寝る、眠れないなら布団かぶって目を閉じるのがいいのかなと思います。

 

誰かのために何かをするには、何よりまず自分が、精神的にも肉体的にも健康であることがいちばん良いと思うので。

雨の歌

今週のお題「雨の日の楽しみ方」

私の住む関東地方も本日から梅雨入りとのことで、タイムリーなお題が来ました。

 

雨の日に出かけるのは、やっぱりそれほど好きではないです。靴や服は濡れるし、何より湿気が高すぎるのはあまり心地良くはないし。でもあえて雨の日で好きなことって無いかと考えてみたのですが、あるとすれば「音」かなと思いました。

 

私は会社勤めではないので、取材や打ち合わせがない日の多くは自宅で作業をしています。家にいるときは「ここからここまでが働く時間」と区切ることはなかなか難しいので、ここ最近は「明らかに仕事をしていない時間」以外はテレビをつけることがほぼなくなりました。比較的軽めの作業のときは音楽をかけることもありますが、音が無いほうが頭がよく働くタイプのようで、家にいる間は室内が無音の時間も長かったりします。

 

と言っても外を走る車の音や、道行く人の声は聞こえてきます。これが雨の日になると、窓の外を見なくても聞こえてくる音ががらっと変わるところが好きなのです(ようやくお題にたどり着いた……)。

 

走る車のタイヤが上げる水しぶき。

屋根に落ちる雨粒。

遠くからかすかに聞こえるどこかの学校のチャイム。

 

音というのは気温が高いほど速く、かつ気温の低い方へ伝わる性質があるそうです。よって、地表が暖かく上空との温度差のある晴れの日は音が上空へと逃げやすく、雨の日は地表が冷えて上空との温度差が小さくなり、音が遠くへ伝わりやすくなるのだそう。雨の日だけでなく、夜間や冬場に遠くの音が聞こえやすくなるのもこの現象らしいです。

 

タイトルは、私個人もめちゃくちゃ好きな曲、ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」から。「雨の歌」という通称は、自身による歌曲「雨の歌」と「余韻」の主題が使われているからだそうです。この曲にはほかにもロマンチックかつ感動的なエピソードが満載なので、機会があればまたちゃんと書きたいと思います。

 

雨の日は注意力や記憶力がアップするという調査結果もあるそうなので、せっかくだしいい感じに過ごせるといいなと思います。出かけないといけない日は……どこかのカエルちゃんが喜んでると思いこむ(結局それ🐸)