たまおのブログ

たまおです。

“キャラクター”との付き合い方について考えた

「すごく好きな作品なのに、キャラや展開で受け入れがたい部分が出てきた場合はどう気持ちの整理をつけたら良いでしょうか?」

  という質問をマシュマロにいただきました。似た感じの質問というかお悩みがいくつか来ていたので、まとめてで恐縮ですが私の考えていることを書いておきたいと思います。

※特定の問題に対する見解ではなく、上記質問についての回答です※

 

 結論から言いますが、好き!でもどうしても受け入れられない!という場合は基本的に「見なかったことにする」でいいんじゃないかなと思います。

 

 物語の中のキャラクターは現実に存在しないので、リアルな人付き合いと違ってコミュニケーションで問題解決をすることはできません。よってこういう場合は「自分が納得できる落としどころを見つける」か、「見なかったことにする」か、「ちょっと離れてみる」のいずれかを取るしかないんじゃないかなと思うわけです。これは現実世界で言う“自分との接点はないけど存在はする人”、たとえば好きな芸能人なんかが近いと思うんですが、その人がスキャンダルを起こしたりこっちの理想とは違う行動を取ったときにどうするか、と考えるとわかりやすい気がします。

 

 で、ここからは余談です。創作物に対する私個人の考え方は、ざっくりまとめると以下の通りです。

 

 1.原作(公式)が作品世界の絶対的な事実(正)であり、正であるべき

 2.ただし作品やキャラクター像をどう捉えるかは個人の自由

 3.とはいえ各個人の捉え方を他人に強要すべきではないし、される必要もない

 

 これについてもう少し詳しく書きます。くどいようですが私個人の考え方です。

  

 1.原作(公式)が作品世界の絶対的な事実(正)であり、正であるべき

 ここで「あるべき」と書いたのは、私はキャラクターにはキャラクターたちの世界の中だけで動いてほしくて、現実世界の存在が介入することに違和感を覚えるからです。漫画でも小説でもそうですが、作り手には「一度世の中に出したものは撤回すべきではないし、撤回しない覚悟でキャラを動かしてほしい」し、そうだと信じて創作物に向き合います。違うかもしれないけど。違ったらちょっとがっかりするけど……。

 明らかな誤りややむを得ない事情があれば話が別ですが、一度出したものが変えられた瞬間、そこに“その世界にないはずの現実の都合”が見えてしまうからです(成長によってキャラ自身が前言を撤回するとかはこれまた別の話)。

 

 2.作品やキャラ像をどう捉えるかは個人の自由

 私は創作物に対して、正直「所詮は作り物の世界だし、自分が作者でない限り望み通りにならなくても仕方がない」と割り切っています。でも、作品の受け止め方は「所詮は作り物の世界」とはまた違う面もあることに、今回の記事を書いていて気づきました。

  どういうことかというと、創作世界の後ろにある“現実の存在(作り手)”にフォーカスするのではなく、物語の中の人物の行動や発言は、生身の人間と向き合うようにまずはいったん受け止めて、なぜこの人はこう動いたのか?こういう展開になったのか?を徹底的に考えるということです。理解できない描写があれば真っ向から否定するのではなく、何か見落としがなかったか、自分はちゃんとこの人を理解できていたのか、使われた言葉の意味は、全体をとおして見たらどうなるか、と考えて落としどころを見つけるわけです。

 ちなみに「この描写は作り手がこういう考えだからに違いない」というのも捉え方のひとつだし、私も作り手のことを考える場合もありますが、本当の理由は作り手側にしかないものだという事実は、心に留めておきたいことだと思います。

 

 3.各個人の捉え方を他人に強要すべきではないし、される必要もない

 先ほど書いた「私の受け止め方」によって生まれたものは、いわゆる“解釈”と呼ばれるものでもあると思います。ただし、そういう解釈や捉え方は「私はこう感じました」と人に伝えたり表現することはあっても、それを強要するのも、自分の価値観に他人のそれを当てはめようとするのもナンセンスだと思います。この記事もそうですが、私が「~と思う」「~と感じる」「~かもしれない」と書くことが多いのはそれも理由のひとつです。

 

 

 今回この記事を書いてみて、自分の考え方を整理するいいきっかけになりました。それで思ったことはもうひとつ。現実世界でも創作でも“認識のズレ”は生まれるものですが、それを埋めていくのがリアルな人付き合いにおけるコミュニケーションであって、上で書いたように、創作上のキャラと自分との間にコミュニケーションは発生しません。「こんな行動や展開があるのはおかしい」「この人はこんなこと言わないのに」という不満が生まれるのは、作り手の存在を意識しすぎてしまっているからでもあるのかなと思ったりもしました。それがいいか悪いかは別として。

  作品をどう解釈するかは個人の自由であり、人の解釈や意見に賛同するのも反対するのも自由ですが、大切なのは誰かの意見ではなく、あくまでも「自分はどう感じるか」「何を選択するか」を考えてみることではないかと思います。

 

 最後に、今回マシュマロをくださった方やこういうお悩みを抱える方に僭越ながらひとつだけアドバイスを。作品やキャラクターに対して感じることはその人だけのものであって(考える上の要素として他人の意見を見てみるのはありだと思いますが)、わざわざ自分と反対の意見やネガティブな感想を気にする必要はないです。自分が好きなものをみんなに好きと言ってもらえるのは嬉しいけど、仮に自分が好きなものを他人が嫌いだからといって、それは他人の評価であって自分の気持ちではありません。自信持って推していきましょう。そして、無理!と思った場合も無理せずに。

  

  おまけ: 

 映画評論家の淀川長治先生は、それまではそこそこ評価していたヴィム・ヴェンダース監督のある映画を観た時、「あまりにも期待外れで数日寝込んだ」んだそうです。どんだけショックだったんですか先生……と思いますが、その後に完成した次の作品を見たところ溜飲が下がったのか、その新作については「これは世界に対する懺悔、謝罪の映画だ!」と評論してらっしゃいました。ヴェンダースが本当は何を考えていたかはともかく、これもまた、ひとつの“落としどころ”なのかなと思いました。